ウェブアーカイブの現在と展望−国際連携に向けて−

水曜にNDLで講演を聞いてきた。

技術的なことに無知なのと、英語力の不足で、分からないことも多々あったが、思ったより楽しめた。

講演者のお三方の話から私が汲み取った議題は以下の4つ。

  • 即、web archivingに取り組むべし。サイトは刻一刻と消えていってしまうので、焦るべし。ゆっくりと計画を立てて十年後から「さあ始めようかね」なんていうのでは間に合わん。
  • 機関に合った戦略を立て、収集方針を定めて取り組むべし。そして、どんどんアーカイビングの範囲を拡大するべし。
  • ウェブマスター、民間企業などを巻き込むべし。ウェブアーカイブの価値を宣伝し、協力することのメリットを説明し、巻き込むべし。ウェブマスターの中には、自分のサイトが国のウェブアーカイブに含まれることを誇りに思う人もいるので、このようなことも巻き込む要素になる。また、サイトの保存という観点からもウェブマスターに利益をもたらす。
  • 国立図書館がウェブアーカイブに取り組む利点は、3つ。1つ、組織の長期的な持続性という観点から。2つ、アクセスの中立性の確保という観点から。3つ、情報の公開(展示)という観点から。国立図書館はこの3つの観点にこれまで物理的な資料に関して取り組んできたので、ウェブアーカイブの際にもこの蓄積してきたノウハウを活かすべし。

 喜連川教授はウェブアーカイブをどのように活用するかの実例を分かり易く提示していた。現在の検索システムは現在のサイトを検索するだけだが、喜連川教授が作ったシステムはウェブアーカイブを利用して、過去のサイトも検索し、そのキーワードを使用しているサイトが増えていく様子を見ることができる。また、そのキーワードを使用したオリジンを特定したり、サイト間のつながりも見ることができる。

あぁ、こりゃ社会学なんかに応用したら面白いだろうな。と思っていたら、やっぱり社会学的な応用がすでに行われているらしい。

以下、2つほど問題点が提示されていたので。

  • 現在は表層ウェブだけが、対象になっているが、この先はどうするのか。
  • 著作権の問題。出版社に対する恩恵が明確になっていない。(New York Timesがウェブ公開する事で再発行の注文が増え、広告収入が増えたというような例も挙げられていたが…)


これ、もし、国内すべてのサイトを対象とかにしたら、NDLだけでやるのは相当大変だろうな。

関係ないけど、英語力のなさをひしひしと感じた。やっぱり同時通訳には限界がある。英語を頑張ろう。

第9回図書館総合展 2日目

 相変わらずみなとみらいは無機質で不思議なところだった。午前中は1つフォーラムに出て、午後はシンポジウムに出た。とりあえずざっと書いておこう。

テクノロジーマーケティング&デザインドリブンでこんな図書館できるんじゃない       −Web2.0時代にみる図書館の社会的機能−2007年11月8日10:30-12:00

 午前中のフォーラムは進行役もパネリストも皆さんベンチャー企業の社長さん達でした。あまりまとまりのない話し合いだったし、時間配分も失敗していたのだと思うけど、社長さん達が夢想する図書館に対する2つの提案は考える必要あるなと思った。
 1つは、図書館の予算の話。いうまでもなく図書館の予算は今どんどん削減されているわけで、その一方でサービスはこれまでよりも充実させなければならない。んじゃあどうするかというときに簡単に思いつくのが、じゃあ自分でお金を集めましょうということだ。ここで寄付を募るという手も当然あるが、募った寄付を運営費に直接充ててしまってはどんどん食いつぶしてしまう。それはまずい。なら、寄付で得たお金を運用して、自律的な図書館経営モデルを作れないかなという話だった。具体的なプランに関しては知識の足りない私はよく理解できなかったが、予算を自ら調達する方策を考えるという発想はとても良く理解できる。というより誰でも考えつきそうなことなんだけど、パネリストの一人の方が、これまでの「図書館の常識」というヤツがそのような発想を邪魔するので、簡単にはいかないだろうとおっしゃていた。私もなんとなくそれは感じる。それは多分図書館の公共性(?)の問題とも関係してくるし、図書館員の雇用制度とも関係してくるし、id:katz3:20070702でkatz3さんがおっしゃっている「空気」のようなものも含まれるのかもしれない。図書館は「やれない」のではなく「やっていない」のだというパネリストの言葉が印象に残った。
 さて、2つ目は1つ目と関係してくるが、サービスをもっとニーズに合わせて計画的にやれという話だったのだと思う。幾ら予算があったとしても増殖し続ける多種多様な図書館のサービスをすべて完璧にやるなんて絶対無理なのだから、きっちり調査して、顕在的、潜在的ニーズを把握して、ターゲットを絞ってサービスしましょうという話だ。資料の提供、物理メディアにこだわらない情報の提供、場の提供などなど、どれを重視してサービスしていくのかということ。これももっともな話だ。私は特に図書館は潜在的ニーズをうまく捉えられていないと感じている。どうも図書館はアンケートをとるだけで満足している気がしてならない。消費者は自分のニーズを認識してはないというのは、商品開発の常識なのだろうけど、図書館の利用者は、商品の消費者と同等か、またはそれよりもさらにニーズを自覚していないと思う。図書館でもサービスを受けてはじめて「おお、こりゃ便利だ」と気づいてもらえるサービスをしなければならない。
 この潜在的なニーズに対する取り組みの話は、午後に行ったシンポジウムで事例報告が行われていた。

利用者300万人の大学図書館像 ー学習支援図書館の姿を求めてー 2007年11月8日 13:00-17:00   国公私立大学図書館協力委員会主催 平成19年度シンポジウム

 午後はこのシンポジウムに出た。午前のフォーラムもそうだったが、資料がもらえなかったのはかなり不便だった。こっちはとくに四時間もあるので。午前の話と関係して、1つの事例報告について少し書いておく。

慶應義塾大学における学習支援の方向性を探るフォーカス・グループ・インタビュー」*1

 この発表も資料が配付されなかったので、記憶にたよって書かざるを得ないので、間違いがあれば、指摘して頂けると助かります。
 この事例報告は大学図書館におけるEBL*2のE(evidence)を図書館の現場で作り出す試みとして興味深いものだった。学部1、2年生で、図書館をよく利用するグループと図書館をほとんど利用しないグループに分けて、5、6人ずつ2時間のインタビューを行った結果を分析した事例報告だったが、ここから報告者が導き出した結論は利用者の図書館に対する潜在的なニーズをうまく炙り出していたのではないかと思った。
 その結果の中で印象に残っているのは、1つに、調査によって学生の学習の輪の中に図書館員が入っていないことがはっきりと示されたということだ。どうゆうことかというと、学生は何かレポートや授業の課題なので分からないことがあるときに、図書館員を相談する相手としてみなしていないということだ。調査の結果、学生は先生にすら相談したり、質問することをためらうことがあるという結果が出ている。ましてや図書館員なんて蚊帳の外だということだ。彼らはわからないことは友人に聞いたり、先輩に聞くことのほうが多い。教員は敷居が高すぎるということだ。図書館員は学生に恐れられてはいても、相談相手だとは全く考えてもらえてない。ここから上岡さんは次のように提案していた。
 図書館員はもっと敷居を下げ、学生が相談しやすい環境を作るべきであり、また図書館員自身が学生がレポートを書くのをサポートできるようにスキルを高め、情報の検索に関してもそれを独立したものとしてとらえるのではなく、レポートを書くという行為の流れの中に位置づけてサポートできるようにしていかなくてはならないとおっしゃっていた。
 私も全くその通りだと思う。どうも図書館員は情報検索というものが独立して教えられるという考えをもってしまいがちに感じるのだけどやっぱりそれはすこし無理があると思う。*3レポートがどのような意味をもち、どのように書くべきなのか。そのなかで情報検索が何故必要なのかということを語らずに、実用的な検索技術だけを教えることには無理があるように感じる。*4しかし、上岡さん流情報リテラシー教育を実現するためには、人材育成等にコストも当然かかってくる。制度の変革も必要だ。この調査は組織として変革の難しさに挑むことへの根拠を示したという点で、意義のあるものだ。EBLというのが一体何なのかが朧気ながら見えた気がする。
 そして、もう一つ感心してしまったのは、この調査が慶応大学理工学メディアセンターのWGで行われたということだ。これはつまり業務として調査していたということになるからだ。相当手間暇かかるであろうこの調査と分析を業務で行うということは、現場全体にサービスを向上するという意志がなければできないだろうし、EBLへの意識の高さがないとできないことでもあると思う。素直にすごいと思う。

長くなってしまった。

*1:慶應義塾大学理工学メディアセンター 上岡真紀子氏の発表

*2:EBLについては以前ちょっと書いた。http://d.hatena.ne.jp/marcello/20071003/1191413527

*3:パネルディスカッションのときに、案の定会場からレポートの書き方を教えるのは教員の役目ではないのかという反論が出た。これに対して上岡さんは、情報リテラシーのコアは論理的、批判的能力だとおっしゃり、専門分野の内容的側面には踏み込まないまでも、情報リテラシー教育にはこのような能力を養成する役割があるのではないかとおっしゃっていた。私は上岡さんの意見に賛同する一方で、専門的内容とそうでないものを指導の中で区別するのは難しいのではと感じるので、教員との連携またはサブジェクト、あるいはリエゾンライブラリアンの人材育成をもって対応できないだろうかと感じた。

*4:id:katz3:20071023ここでのkatz3さんの御指摘は正鵠を得ていると思う。

敬称をどうするか。

 図書館に勤務していると、利用者の敬称をどうしようかと迷うことがある。「さん」をつけるのか「様」をつけるのか。私の知っている公共図書館では、「さん」を付けている。大学図書館でも私の知っている限りでは「さん」だ。国会図書館ではどうだっただろうかと考えてみると、「様」で呼ばれたような気がする。私は大学図書館に勤務しているので、職員の人たちは皆利用者を「さん」をつけて呼んでいる。そんなことどうでもいいじゃないかと考えたりもするのだけど、なんかどうでも良くない気がする。それはおそらく、敬称の付け方は相手を自分に対してどのような位置に置くかということと関係しているからだと思う。病院は患者を「さん」で呼ぶ。役所は「さん」だったり「様」だったりする。一般の企業が顧客を呼ぶときは間違いなく「様」だろう。この順番で応対はどんどん丁寧になる。敬称の付け方だけではなく、言葉遣いも丁寧になる。
 大学図書館の応対する相手は主に学生と教員だ。教員に対しては職員はかなり丁寧な応対をすることが多い。相手が「先生」だからだ。教員は当然「先生」と呼ばれる。しかし、学生は職員から見ると「学生」であり、時に「子ども」だとみなされる。「子ども」であるがゆえに、応対も「子ども」に対してのものになっている人がいる。言葉遣いや、話し方が自然にそうなってしまっているのだ。例えば、謝るときに「ごめんね」という言葉を使ったりする。社会人に対してや先生に対して「ごめんね」などと軽々しく言うことはないはずだが、学生相手だとそうなってしまっている。このような対応は督促をする時やマナーを守らない利用者を注意するときにも影響する。つい「子ども」を諭すような口調になったり、「子ども」を叱るような口調になったりしている。大学生が「子ども」なのかどうかは私にはわからないが、少なくとも図書館員が大学生を「子ども」だとみなして対応することは適切ではないと思う。
 その理由としては、図書館員にとって大学生は教え子ではないからだ。*1図書館員は確かに学生にアドバイスをするが、それは図書館員が研究者の卵にアドバイスをするのであって、「子ども」に教育をするのとは違うはずだ。どんなに未熟であっても、研究をしようと思って図書館員にアドバイスを求めに来ているという点では教員と何ら変わることはない。図書館員は研究の手助けができるように最大限の努力をするだけだ。それが仕事なのだから。そのような関係の中で図書館員が学生を「子ども」だとみなすことは、「子ども」に教えているという錯覚にとらわれた図書館員の油断と考えられても仕方ない。
 さらに言えば、図書館の利用者という立場では教員と学生は同じ立場だが、大学という大きな視点から見れば2つの立場は異なっている。教員は図書館員の同僚だが、学生は顧客だ。大学職員である大学図書館員からみてどちらが外部なのかと考えれば、当然学生の方が外部なのは明らかだ。外部のものにはより丁寧に応対するのが一般的な社会のルールだろう。現在は逆になっている。私は、大学はサービス業だという議論に必ずしも全面的に賛成するわけではないが、その議論が図書館員は利用者に最低限の敬意を払うべきだということの論拠として有効ならば、その議論も上手く取り入れればいいのではないかと思っている。
 親しみを持ってもらえる図書館にすることは確かに大切なことだ。しかし、親しき仲にも礼儀ありなので、どんな利用者が来ても敬意を忘れずに対応していきたい。「様」をつけるか「さん」をつけるかはもう少し考えてみたい。

*1:私は大学生の場合、教員と学生の間であっても教員が学生を「子ども」だとみなすことは適当ではないと考えているが、それはまた別の話

EBL?

 EBL(Evidence Based Librarianship)についての雑誌の記事(情報の科学と技術  Vol.57, No.5(20070501) pp. 226-232*1)を読んだ。その名の通り、根拠に基づく図書館業務。でもこれだけじゃあさっぱりわからん。カレントアウェアネス-E No.97 2006.12.20に分かり易く述べられているので、ちょっと拝借。

図書館業務に関する回答可能な「質問」を設定し,それを解決するエビデンスを発見し,評価し,活用し,意思決定に適用させる。エビデンスとして統合されるものは,利用者からの報告,実務者の観察,あるいは研究結果から抽出された事実である。このエビデンスの評価に基づいて,図書館の様々な業務,すなわち蔵書構築,レファレンスサービス,利用者教育,マーケティング等を行っていく。

なんだかいまいちつかみづらいですが、つまり「科学」的根拠に基づいた図書館業務マニュアルのデータベースを作ろうという話なんだろうか。全くまだ運用段階ではなくて構想の段階のようなので、どうも具体的な像がつかめない。
 EBLをもし導入するとして、そのメリットはなんだろう。研究が実務に直接反映されることだろうか。確かにいま図書館は意思決定をしなければならないときに路頭に迷うことが多いのかもしれない。そうゆうときに科学的根拠のあるプランを立てることができれば、対外的にも対内的にも説明がしやすいことは確かだ。変なしがらみや、なんとなくあるような規範意識や根拠のない倫理観に惑わされずに方針を決められそうな気もする。
 でも、現場でもし運用するとなると2つほどしっくりこない。1つ目はEBLがもともと医療の現場でのEBM(Evidence Based Medicine)から発展した考えかただということ。医療の現場で使われるEBMはそのプロセスのなかで最初に形成される「質問」が合意しやすいのではないかと思う。なぜなら、その最終目的が患者を治療することだから。*2でも図書館の最終目的ってなんでしょうか。むしろそれがいま大きな問題となって揺らいでいるのではないでしょうかねえ。例えば、病院は病気を治療してもらいに行くところ。じゃあ図書館は?目的がわからなければ、「質問」を作ろうにも職場での合意が形成できないのではないかと思うし、目的がはっきりしていなければ、科学的なエビデンスを得ても、意思決定できないような…。
 2つ目は、一つ目とも関係してくるけども、図書館の組織的な問題。日本のほとんどの図書館は地方公共団体や大学、企業などに属している。ということは当然意思決定にはそれらの母体となる組織の意思決定が大きく関係してくるわけです。場合によってはそちらの方が比重が大きい場合もあるのだと思います。そうゆう場合に、科学的エビデンスは効果を持つのかということです。エビデンスが無視されてしまう恐れがかなりあるんじゃないでしょうか。
 ここで一つ目の危惧と関係してくるわけです。図書館と図書館の母体となる組織に図書館の目的というものがある程度合意されていれば、あとはエビデンスで細かな意思決定は可能かもしれませんが、その最初の合意はなかなか大変なのではないかなと。

*1:CiNiiで書誌と抄録だけ見られます。http://ci.nii.ac.jp/naid/110006250969/

*2:例外も考えられるけども、多くはこの目的だと思うのですが、どうでしょう。根拠はありません

白手袋の真実?

 図書館では、貴重書を扱うときにその資料が傷むのを恐れて、職員や利用者が白い手袋をつけることがあるのだけど、それがかえって資料に良くないという記事(http://www.hozon.co.jp/hobo/archives/200512/hobo_0512.html#tebukuro)を見つけた。こ、これは…。私は仕事で貴重書に触れる機会が多いので、これはただごとではないのです。勿論この意見には異論反論がありそうですが、けっこう説得力があります。

石鹸で洗い、乾燥させた清潔な手の方が悪い影響はずっと少ない。もし頻繁に手を洗うことができない場合には市販の使い捨てのウェット・ティッシュやタオル(消毒用のアルコールを含ませてある)を使うのはとても良い選択だ。

 利用者への対応に追われながら貴重書の出納を行わなければならないから、ゆっくり手を洗うのは難しい。ウェット・ティッシュやタオルは置いてあると便利かもしれない。ただ、利用者が資料に触るときに利用者の手をどこまでしっかり管理できるかというとまた厳しいものがあります。この記事が紹介しているIFLA(国際図書館連盟)資料保存分科会のニューズレター International Preservation News (IPN) の最新号(No.37, December 2005)のほうを読んでみて、ちょっと考えてみたいと思います。
 この記事でもう一つ重要な指摘は、

手袋神話はまた、資料にとってもっと悪い影響を及ぼしている事柄を心理的に隠蔽してしまうことがある。保管場所の大気の汚染、高温、多湿、紙の中の酸性物などの方が、資料にとっては、はるかに有害であるのだが。

これです。管理の行き届いた保管場所の確保。このような利用者からは見えづらいが、とても重要なサービスをどうやって充実させるのか。これが難しい。



追記

この記事に関係して、さらに興味深い話がこちらに載っていました。
http://hvuday.seesaa.net/article/57605998.html
新しいツールでしょうかねえ。

『地球へ…』

 『地球へ…』(http://www.terra-e.com/)という漫画家の竹宮恵子原作のアニメの最終回が終わってしまった。私は何でかわからないが宇宙ものがけっこう好きなんで、つい見てしまいました。1977年に描かれた漫画のようですが、設定としては今のほうがはるかに説得力を持つ設定だ。コンピューターによる管理体制、環境破壊などなど。人類が地球を出てしまっているという設定や、人間が自然分娩を行わなくなっているという設定などは樹なつみの『獣王星*1と似ているが、『獣王星』の方は1つの星のなかで物語のほとんどが進行するのに対して、『地球へ…』は宇宙が舞台になるので壮大な話になっている。
 原作は読んでないのでわからないが、アニメでは一人一人のキャラクターの葛藤がしっかりと描かれている。特にキース・アニアンというキャラクターはうまく描かれていた。いいアニメだったなあ。

*1:ちなみに『獣王星』もアニメ化されているが、私はこちらは漫画でしか読んだことがない。全五巻

本の修復

 ハーバード大学図書館に行かれている江上さんのブログに、こんな話(http://hvuday.seesaa.net/article/55982154.html)が書かれていました。ハーバード大学図書館は資料の保存に力を入れているのですねえ。資料を保存することが社会的に価値のあることだと認識されていないとこれはできないことだと思いました。やはり日本でやるのは至難の業だと思います。私のいる図書館も一般書に関しては多少修理をしていますが、業務の合間にちょこちょこと行うくらいで、専門に修理をしている人なんているはずもなく、その時間すら取ることができないのが現状です。本の修復はけっこう楽しい作業なのですけどね。
 この資料の保存のこと1つ考えても、図書館の業務は1つ1つをきちんとやろうとすると現在より時間もお金もかかります。ただそのなかにはその1つ1つを手を抜いてやったとしても今日、明日に影響が出るわけではない仕事もあります。予算が少なければ当然それらの仕事が手抜きになります。しかし、それらの手を抜いた仕事は五年後、十年後、百年後に必ずツケが回ってきます。図書館の役割はなんなのか、その役割のために図書館は何をしなければならないのか。これらがどれだけ具体的に社会に認識されているかによって、図書館が長期的視野に立った仕事にどれだけ時間と金をかけることができるかが決まってくるんでしょう。難しいもんです。自分が今本が読めれば後のことなんて知ったこっちゃないと思う人は多いでしょうから。なんて刹那主義的な図書館観。
 
 と、嘆くのも大事なのですが、江上さんはブログのなかで、「効率的に仕事をすること」ことの意義はなんなのかについても考えを巡らせていらっしゃいます。これはさっきの話よりももっと重要です。江上さんも書かれていますが、うらやましがってもしょうがないので。(うらやましいですけど)
 確かに現在日本でも図書館は効率化を求められています。もちろんこれは図書館に限った話ではないけれど。ただ、図書館において、「効率的に仕事をする」のは一体何のためなのかはあまりはっきりしていません。図書館、そして図書館を運営している組織はそのほとんどが利潤を追求する組織ではないからいまいちはっきりしないのかもしれません。最近は大学なんかは市場原理が入り込んできてますけど。図書館は図書館の「効率」とはなんなのかを考えねばならんのですね。この点から考えても、ハーバードがどんなんなってるかはとても興味あるところです。貴重な情報と興味深い意見に感謝すると共に、これからの江上さんのブログを楽しみにしたいと思います。